ソ連国連代表部の窓の小さな部屋で待っていると、グロムイコが「ミスターニェット」のあだ名ぴったりのしかめっ面を、ひときわブスッとさせて入ってきた。私は宮沢前外相からの引き継ぎでもあるので、なるべく低姿勢に出て、ミグ25の問題も日ソの友好関係の中から解決したい、といった話をした。ところが途中で先方は「あなたは友好と言うが、少しも友好的ではない」と言い出し、後は言いたい放題である。いわく「日本は勝手に飛行機の中身を調べ、しかもどこかの国に見せて技術を探ろうとしているではないか」「日本は操縦士のベレンコ中尉の意思を曲げている。米国に亡命したいと言っているというが、そんなはずはない」といった調子だ。
私もたまらず「私がここに来たのは飛行機を返す話をするためだ。第一、日本の座敷にいきなり土足で入ってきて『すまなかった』の一言くらいあってもいいではないか」と反論したら、大変な怒りようである。「今日は外相同士で機体の返還を決めよう。後の手続きは事務レベルでやればいい」と提案しても、英語で「ナンセンスだ。ナンセンス」と繰り返すばかりで、話し合いにも何にもならない。

さらには「ソ連は日ソ平和条約には賛成だが領土問題で話し合うと言ったことはなく、考えてもいない」と北方領土問題の存在すら否定する始末だった。会談後の記者会見で「水一杯、出なかった」と言ったら、それが当時の冷え切った日ソ関係を象徴するエピソードとして随分有名になった。ニューヨークから帰国すると、再び「三木おろし」と呼ばれた政争の真っ只中である。「三木おろし」は田中前首相がロッキード事件で逮捕されたことに端を発する。三木内閣の生みの親である椎名副総裁が「三木ははしゃぎすぎだ」と倒閣に動き、これに保利茂、船田中、大平正芳、福田赳夫といった党内実力者が呼応して三木退陣を迫った。
私は「三木おろし」には一貫して反対の姿勢をとっていた。党で一致して決めた総理総裁を途中で引きずり降ろすのはクーデターである。このさい選挙で民意を問い、結果によって三木首相の進退を決めたらいい、というのが私の考えだった。私は今でも民主主義の立場からいえば、正論であったと信じている。

公職選挙法第31条
1.衆議院議員の任期満了に因る総選挙は、議員の任期が終る日の前30日以内に行う。
2.前項の規定により総選挙を行うべき期間が国会開会中又は国会閉会の日から30日以内にかかる場合においては、その総選挙は、国会閉会の日から31日以後35日以内に行う。

任期満了の選挙など公選法が施行されてから一度も行われたことはない。衆院議員の任期は四年間だが、たいてい二年もたてば解散してすぐ次の総選挙になる。ところが今度はその任期満了が目前にある。
そういえば衆院総選挙は昭和47年12月10日 (田中内閣による解散・総選挙の投票日) 以後、一度も行われていない。前回の選挙投票日から四年後となると現議員の任期満了の日は大雑把にいって今年の12月10日となる。投票日はこの日を基準にして30日以内でないといけない (公選法31条1項) 。この規定をあてはめて一番早い投票日を考えると 11月10日となる。
その時、国会はどうなっているか。会期は50日だから11月4日が最終日だ。そこで11月10日の投票日は当然 国会閉会の日 (11月4日) から30日以内にかかわる場合となる (公選法第31条2項) 。

この場合は11月4日 (国会閉会の日) から31日以後、35日以内に投票を行う (同2項) ことになっている。ここから見て、投票日は11月4日から31日以後の日、すなわち12月5日ではないか。
私は探偵小説の筋を追うように素人考えで法文を辿っていった。
ところで任期満了の選挙とはいったい何だろう。いわば投票日の確定した選挙だ。投票日の確定した選挙は参院選と同じことではないか。
こうみてくると会期50日を見込んだ9月16日の国会召集は、12月5日の投票日から逆算してみるとギリギリの日ではなかったか。三木首相があれほど「臨時国会の召集にこだわった」のはここに原因があった、そうとしか思えなくなる。
三木首相の周辺は、以上のように解散の日取りを十分承知の上、国会召集を決めたとなれば、当然 三木は解散・総選挙を肚に置いた上で行動しているとしか思えない。
われわれの行く手には、はっきり解散がある。これは既定の事実なのだ。両院議員総会で三木首相が解散しないといってみても、これはしょせんナンセンスだ。

11月中に両院議員総会を開いて三木首相の退陣を決議してみても、首相が居すわって11月15日に選挙の公示 (投票日の20日前に公示する) をしてしまえば、いっさいが吹きとんでしまうではないか。
12月5日の投票となれば 選挙運動を一ヵ月と見て、11月5日には代議士連中は選挙区にとんで帰らねばならない。新人候補者が選挙区を動き回れば現議員はおちおち法案の審議などできないはずだ。
「われわれは完全に “はめ手” にかかった。こうなれば後手の先手しかない」
学者グループの一員は確信をもって私にそういった。 “後手の先手” とは何か。選挙によってわれわれの同志がより多く当選し、選挙後の首班指名では三木に投票しないことだ。このことを十分肚において選挙に臨むということになる。

9月21日、私は大平と会って「11月15日の公示、12月5日の投票」の想定を述べた。大平も心中 愕然としたらしい。
「解散後に三木退陣を実現するしかない」
と私は主張した。10月の党大会は事実上無意味となったのだ。大平も
「今里広記もその考えだ。『党大会で騒ぐのは良策ではない』という考え方だ」
といった。

私はこれで仕事が終わったと思うほどの思いになった。事実、これが今後の政局のいっさいを決めた。
それから三日ほどたった。国会で三木首相の所信表明が行われた日のことだった。私は疲れたし、金子先生のすすめもあって休養のため家で寝ていると電話がかかってきた。家内が出たら、ある若手の財界人からであった。
「大福提携にあなたが動いているときいた。提携が本物であれば永野重雄氏と共に自分が仲に立ちたい」「あなたは大平のところへ帰ったのか」
という。私は
「いや、ただ大平の家庭教師のようなことをしているだけだ」
というと、その財界人は
「鈴木善幸氏と会ってよく聞いてみる。会った後また連絡しよう」
といって電話を切った。
四日後の9月28日、再びこの財界人から電話があった。
「きのう鈴木と会った。福田の方の考えは福田派と宏池会を一本にまとめるつもりだが、宏池会は福田を担ぐつもりはない。大平内閣実現だった。鈴木はよく考えている。あなたは大平とよく話しているのだろうか。福田と大平派のミゾはよく判った。私はこれで手をひく」
といった。この実業家の判断は極めてはっきりしていた。

鈴木善幸は福田内閣など夢にも考えてはいないのだ。私はこの財界人にお礼をいいたいぐらいであった。私は鈴木には福田との関係を報告しなかったし、大平もまた一切いわなかったのだ。「鈴木は何も知らぬまま、ここまで事態は進行している」、このことが実によく判った。私は急いで対策を講じる決心をした。
翌朝早く、私は瀬田で大平に事情を述べた。
「鈴木は福田を担ぐつもりはない。早急に宏池会の首脳部会議を開き、宏池会としての受け皿を作ってほしい」
と頼むと、大平は
「明日、鈴木善幸、小川平二、斎藤邦吉、大平、塩見俊二 (参議院) の五者会談をやることになっている。そこでおれからよく話しておこう」
といった。大平は派内の意見調整にさしたる困難は感じていないようだった。
「福田が改選前の現閣僚を全員招待して、会食することになっている。おれも出る」
大平はこの話をとってつけたように話してくれた。私には何の意味だかよく判らなかった。
二日ほどして9月30日の朝、大平に会うと、状況は極めて順調に進んでいることが判った。
「福田の名で三木内閣の (改造でやめた) 13閣僚を招待した。

これは大福が招いたのだが、内容は極秘になっている。この閣僚の中から『おれたちを犬死にさせないでほしい。犬死にさせるかどうかは大福の問題だ』といわれた。おれは『判った』といった。福田は黙っていた」
（三木内閣が倒れることが、彼らにとって犬死にではないことになるのだ）
「金丸、小沢、竹下の三人 (田中派) に『君たち田中派も福田でよいのか』と佐々木義武がきいたら『反対しない』という。これが一つだ」
「塩見、鈴木、斎藤、小川の四人と会談した。いま公選すれば大平だ。だがこれでは党はまとまらない。だから福田でよい。宏池会は党を押さえよう。ここで五年生以上の議員の閣僚を作りたいと思っている。大平がこういったら、三人は『それなら福田でＯＫだ。大平のいう通りにする』と同意した」
「『党大会はきめ手にならぬ。だから党大会で騒ぎたくない』と斎藤がいった。『おれもそう思う』といったが『ともかくも党大会は重要な機会だ。これを活用しよう』ということで四人は意見が一致した。これが二つだ」
大平の話で宏池会もまた福田を担ぐことが決定した。「大福の順序も福田、大平となった」ことが暗黙のうちに了解されていた。

私は嬉しかった。これは大変なことだった。私はこれらのことについて何の努力をしたわけではないのだが、スルスルと順調にこのような大きな問題が解決したことに いい知れない喜びを感じていた。
一年前、初めて福田と会った時のことを考えれば夢のようだ。私は「思うままいうままのおかげ」とはこういうものではないかと思った。
10月1日に内田幹事長が
「党則によれば 党大会では三木降ろしはできない」と記者会見で発言し、大きな反響を党内に巻き起こした。これは「党大会で騒ぐことは適当ではない」ことを暗黙に示したものであった。
三日ほどたって宏池会で佐々木義武に会うと「派内で福田の名をあげることはタブーだ。明日、幹部が福田派の幹部と会合することになっている。大福両派の合体論を鈴木善幸に話すと善幸はあまりいい顔はしない」
「内藤誉三郎 (参院中曽根派) が角栄に会ったら角栄も、大福の提携を認め『三木を倒せ』といったという。これを話すと善幸も安心したらしい」
佐々木の話で私は「鈴木善幸はやっぱりふっきれてはいないな」と思った。「この人は田中角栄に囚われている。二階堂進としか話せない人なのか」と改めて感じた。

こうしているうちに10月10日の朝、大平から電話が入り「今日の午後4時、家に来てくれ」といわれた。
瀬田には4時についたが大平はいなかった。なんでも「ゴルフにいっている」というのだ。私は夏の暑さがまだ感じられる秋の日ざしの中で 大平が読みかけていたと思われる本を眺めていた。5時すぎ、日が暮れかかってから大平が「すまん、すまん」といって部屋に入ってきて、ひどく重要なことを話し始めた。
「今日、保利と二人でゴルフをしてきた。保利はおれに派閥を解消してくれないかといった。 (派閥解消に) 抵抗のあるのは君のところ (宏池会) じゃないかと思う、というのだ。おれは方向としては賛成だと述べた。
この後、昭和52、53年の二年間でよいから福田 (を総理総裁) にしてくれないか、これで党をまとめたい、というのだ。おれはＯＫだといった。保利が喜んでねえ。 (ただその) 段取りとして、10月党大会には経緯があった。 (だから) 何らかの措置が必要になると思う、とおれはいった」
「中曽根は扱いにくい男だが 近く会うつもりだと保利がいったので、手づるはないが自分も出来ることは何でもやらせてもらいたい、といっておいた」